
日本人はスピーチやディベートが苦手だといわれています。スピーチやディベートは古代ギリシアや古代インドの時代からおこなわれてきたもので、そこから様々な知識や学問が生まれてきました。日本におけるスピーチやディベートの歴史はおよそ150年。まだまだ発展途上の原点を見える化した歴史コラム第18弾です。
【今日は何の日】 「演説の日」
1874年6月27日、慶應義塾の三田演説館で日本初の演説会が開催されました。
むかしの日本では、口頭で意見を述べる習慣はなく、書面に自分の意見を示して賛同を得ることが一般的でした。
最初に、自分の意思を多数の相手に伝える手段として、演説や討論という方法を日本に紹介したのは、福沢諭吉と初期の慶應義塾入門生です。
この日の演説で福沢諭吉は「日本が欧米と対等の立場に立つ為には演説の力を附けることが必要」と説いたそうです。
そして、彼らは三田演説会を組織して一般に公開し、演説や討論の仕方を手ほどきした本や規則を発表して、その普及につとめました。
言葉としての「演説」と「討論」を普及させたのも福沢諭吉です。彼は英語の「スピーチ」を「演説」と訳し、ディベートを「討論」と訳しました。
「演説」はもともと仏教用語として「真理や道理などを人々にわかりやすく説き明かす」という意味で存在していました。
それを英語の「スピーチ」の訳語に当てはめて、現在の一般的な意味としての「演説」を造ったのです。
福沢諭吉の出身地である中津藩で上申に用いられていた「演舌書」という文書があり、彼は「舌の字は餘り俗なり、同音の説の字に改めん」としたことも造語の背景にあるようです。
三田演説館では、現在でも福沢諭吉の想いと慶應義塾の伝統を受け継ぎ、春と秋の2回、三田演説会が開催されています。
(日付は新暦です)
【今日の名言】 “自分の力を発揮できるところに、運命は開ける”
福沢諭吉の言葉。
福沢諭吉は、坂本龍馬の1つ年上、高杉晋作の5つ年上、吉田松陰の4つ年下。福沢諭吉は明治維新後に活躍しているため、彼らと同世代だと知られていないことが多いそうです。
福沢諭吉も含めて彼らは自分の活躍できる場所(時代)をわかっていたのかもしれません。
【今日のことわざ】 “天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず”
意味は 「人間はすべて平等であって、身分の上下、貴賎、家柄、職業などで差別されるべきではない」 ということです。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』の冒頭にある一文として有名ですが、福沢諭吉が1776年のアメリカ独立宣言の一文を引用したといわれています。